第三話


発する言葉が見つからなかった。
それなら断固拒絶して電話など取らなければ良かったのに私は―― 


受話器の向こうでこちらの様子を伺う様な…いつもなら気がつかないだろう息使いが聞こえた。
大してこちらはと言うと今の今まで床の上での…

日常ではない息使いになっている事など隠せている気は全然しなかった。
いつもなら「最上さん?」と落ち着いたテノールで問うだろう先輩がこの時言葉を発しなかったのは矢張り
勘の良すぎる彼の事、こちらで何が起こっているのか感づいているのかも知れない。

取るべきじゃ無かったと責める自分がいるその反面私は少し――
その受話器向こうの沈黙に胸が熱くなるのは如何してだろうか…。

「もしもし…あの…お疲れ様です」
やっと出たにしては間抜けな言葉だ。次に飛んで来ると予想される問いへの対策何て用意できた筈も無い。
私が言葉を発した事に少し安堵したのか少しばかり向こうの空気が和らいだのを感じた。
それはとてもささやかな変化だったのだろうけど私はその気配に安堵し、ついいつもの様に声を弾ませてしまった。

「如何した?息が…上がってるけど…」
いつもより低くゆっくりと吐かれるその問いに私はまるで恫喝でもされている様な気分になった。

「いえ…その…あの…少し走って…来たので…はい、今 尚の…」
「不破君とジョギングでもしてたのか?仲が良い…」
「ち、ち、ち、違うんです!買出しっ!そうです、パシらされてあの野郎ぉぉーっ!って…」
「…本当に?」
「ええ、ええ、本当ですとも!」

「………俺は君を拘束出来る権利を貰った訳じゃ無いけど
正直な所、独身男性の所に女性一人で行くのは…」
「アイツが私を女、と見てる訳無いじゃないですか!」
「見てるんだよ、何か遭ってからでは遅いんだから…」

「あ、あのそれより何の御用でしょうか?」
「そっちが終わったら…こっちに来てくれないか?」
「……え?」
「迎えに行くよ、良いだろう?」
「いえ、ちょっと今日は…」
「もう君の答えは待ちたく無い」

いつものお優しい敦賀さんでは無かった。
矢張り先ほどの変な沈黙で何かを気づかせてしまったのだろうか。
あの人からあの安定した優しさを奪ってしまう程、私は傷つけてしまったのだろうか。

そんな自覚などどうして持てる?
たった最近まで親を含め誰にも必要だと言われた事の無かった私にどうして。

そう言い訳をしてみた所で私は自ら傷つけたこの人が苛立つ事で
苛立たせてしまった、と自分が傷を付くのだ。その痛みのせいだろうか
今の今までフワフワと浮ついていた心と体が我に返ろうとしたその時、
不意に胸の先に強い刺激を感じて思わず声を上げた。

「で、あの…さっきのお話…や!やだ!…ああん!
ちょ!…アッ!止めて!今、電話してるでしょう!?」

先ほどとは違う荒々しい刺激に思わず体を二つ折りにして声をかみ殺した。
それでも息が乱れてしまう。

「最上さんッッ!」
「あ、あのッ!何でも無いんですッ!」
「代わって!不破に代わるんだ!」
「!…え?代わる?」

頭は真っ白で指示に従って良いものか悪いものか…と尚の顔を見ながら考えたが
答えなど出る筈も無くそれを察したのか尚が私から電話を奪い取った。

二人が何を話していたか、何て認識できる程の余裕は無くただ急いで肌蹴た胸元のボタンを閉めていた。
心臓がまだどきどきと落ち着かない。

「俺にはもう余裕ねーんだよ…何もしなけりゃ
コイツはアンタに盗られるだろうが!」
「盗られるって私はアンタのじゃ無いわよ」

「じゃ、誰のだよ!」
「私のものよ!」

不意に胸元を捕まれ「うるせぇ!」と苛立ったような尚の顔が近くに来た事に気が付いた時にはもう遅かった。
チュ…と淫靡な音を立て自分の唇が放されるのをただ呆然と見てた。そして尚はわざとなのだろう――

自分の口元に携帯を固定し、先ほどの音がきっと向こうにも聞こえているだろう事を
私にアピールする様に手にしたソレを振った。

思わずその頬を打った。打ったこっちの手までが熱く成る程に無意識に力を込めていた様だ。

「馬鹿ッ!馬鹿馬鹿馬鹿!馬鹿ショー!何も変わってないじゃない!
いつも強引に振り回すだけ振り回して!」

感情のままに睨んだ尚の顔は尚らしくなく酷く辛そうな顔をしていた。
泣き出しそうな、縋る様な迷い子の様な…

心に音を立てて少しばかり裂けた様な痛みが走った。

それでも私は急いで携帯を奪うと荷物を纏めて部屋を出た。
その際、携帯のディスプレイを見たけれど通話は切れている様だった。

もし通じていても怖くて出れる気がしないけれど通常画面を表示するそれを見ながら歩いている内に
涙が溢れてとまらなくなって来た。

何も分からない。過去も未来も見失ってしまった。
まるで真っ暗なトンネルの中に一人いる様な孤独感が押し寄せて思わずわが身を抱いた。

先ほどの尚の顔が私を責める。
母に手を振り払われていた時、私はあんな顔をしていたのだろうか。

頭の中で母と小さな私、今の私と辛い顔をした尚の映像が重なり
まるで引っ張りすぎた輪ゴムが切れる様にぷちん、と離れて消えた。
そして敦賀さんと今の私も…

紐が絡む様に私も皆もぐちゃぐちゃだ。
これまでの様に嫌な事が在れば現実逃避して忘れてしまえば良いと言う問題では無くなってしまった。

答えを出さない事で傷つけ続けるし傷つき続ける。
紐を解かないといけない焦燥感がこんなにも首を絞めるのに如何しよう…紐の端すら見つかる気がしない。

エレベーターで降りれば良かったのに私はいつの間にか階段を下りていた様で
やっとの事で一階のロビーに着いた。

自動ドアをくぐり外に出るといつもは平気なのに人気の無さと暗さが妙に怖くなって駅の方面に走り出した途端に後ろから重々しい革靴の音が付いてくる。

スピードを上げようとした途端腕をつかまれ思わず悲鳴を上げたが
目の前に居たのは…

「敦賀…さん…」
「君は本当に馬鹿だな!」


【続く】






駄文同盟.com 花とゆめサーチ

inserted by FC2 system