第六話

幾つかの温室を抜け外へ。
今までねっとりと纏わり付く様な湿度の所にいたので
妙に風が爽やかに感じて心地良かった。



俺はあれだけ取り乱していたのにも関わらず、
嗅覚がアイツを捉えたからか、それとも協力者の存在がそうさせるのか
少し冷静に状況を考えられる様になっていた。

僅かな川のせせらぎが聞こえたので俺達は顔を見合すと
どちらとも無くより一層早足になった。

不意にせせらぎでは無い水音が聞こえた。
まるで水を手で掬っては投げている様な音。

「私は……」

途切れ途切れに微かな声が聞こえた。
それは酷く疲れた様な思いつめた様な声だった。

――キョーコの…声だ。

少し自然には無い様な色が青々とした緑の隙間から見えた。
その瞬間また俺達は打ち合わせも無く身を屈め草陰に隠れた。

隠れたのか安心で力が抜けたのかは微妙な所で
俺と敦賀は思わず手で顔を押さえて漏れ出る笑いを噛み殺した後
再び顔を見合わせ暗黙の諒解で――耳を澄ませた。

敦賀にも言えない、俺にも言えない…
キョーコの本心が漏れ出てこないかを期待して。

「こんな筈じゃなかったな…もう疲れちゃったわ…」
――誰と話してるんだよ…一体。

「大体、勝手よね本当に!」
――それはきっと…俺の…事だ。

「私は仕事一筋に生きるべきなのよ!恋愛が全て…何て言うのは馬鹿の極みだもの」――どうしてコイツは昔から極端から極端にしか走れないんだろうか…限度とか調節と言う言葉を知らないんだろうか…。いや、良い所でも在るんだが…

「免疫が無いからフラフラするだけで…特に意味なんて無いんだから…」

俺は敦賀の顔を見た。アイツも俺の顔を見ていた。違和感を感じているのだろう。免疫が無いからフラフラするなんて…まさかインフルエンザの話ではないだろうし病気ならこんな所でフラフラしてないで水飲んで寝てるだろう。

――敦賀…だろうな。

電話が掛かって来た時の動揺からそう思った。
まるで恋人に浮気をバレルのを恐れている様に俺の存在を隠した。

俺は最早完全なるヒールで、邪魔者で…そんな事判ってる筈なのに
こうして目の前にそれを自然に突きつけられると堪えた。

ずんと心が重たくなり溜息が出る。
目の端でその相手を見るとアイツは何故か俺の顔を苦しげな目で見た。

――あれ?…なんだ?その顔。

「私は赦してる訳じゃないし、後輩から遺脱したい訳じゃないわ!
何かよからぬ魔が忍び寄ってるのよ、きっと!惑わされない!惑わされないわ!健全なる魂は健全なる体から!禊よ!洗い清めるのよ!」

連続した水音。ゆっくり小石が身を擦り合わせる様な足音。
俺達は思わず立ち上がり声を上げた。

「はぁぁぁぁーーーー?」
「最上さんッッ!」
「いやぁぁぁぁぁぁぁ!何でぇぇ!?」

俺達から逃げる様に川のより深い所へ入って行くキョーコ。
思わず歩を止める俺達。

まるで崖っぷちの自殺志願者への説得だ。
近づいて取り押さえる訳にもいかない。かと言って捨て置けない。

「ちょ!お前、此処はプールじゃねーぞ!」
「そ、そ、そ、そんなのアンタに関係ないじゃない!」
「関係もくそも…お前馬鹿なのか!…いや馬鹿だった!そうだった忘れてた!」

座って胸まで水に浸かったキョーコが一瞬で鬼の形相になり…
その水に濡れたままの格好で…手をス――と上げたと思えば勢い良く下に振り下ろした。

水が跳ねた。俺に水を掛けるつもりだったのだろうか、届かないけど…
とか一瞬だけ思った俺はそのまま踵を返して逃げた。

その腕を反動にしてびしょびしょに濡れたままのキョーコが猛烈な勢いで
俺に向かって疾走してきたからだ。

「うわぁぁぁぁ!来るな!来るなぁぁぁ!濡れるッッ!」
「濡れたくないの!?濡れたくないの!?」
アイツは俺を追いかけながらその濡れた手を振り回し
あと少しで追いつかれそうな俺の背に水を掛けた。

――その姿、まるで妖怪。

「うわぁぁぁ!妖怪水かけババァだ!植物園に居た!俺初めて見たッ!」
「人を馬鹿にすんのも程が在るでしょうがぁぁ!私が妖怪ならアンタは何なのよぉぉ!」
「俺は白馬に乗った王子しか無いだろうがぁぁ!」
「五月蝿い!疫病神!」

アイツはきっと嫌がらせのつもりだったんだろう。
その濡れた体で俺の背にタックルして来たから俺はバランスを崩して
床に倒れた。辛うじて商売道具である顔は護ったが手のひらは擦りむいた。

「こうしてやる!」
アイツは自分の体を俺の背に押し付けた。貧弱な胸の感触が…
尻の感触が…水の染み込んで来る感触と共に…

「待て!これは俺のじゃない!敦賀のッ!お前の尊敬する敦賀さんのッ!」
「何であんたがソレを着て…」

そう言って顔を上げて始めてアイツは敦賀の存在を認識したらしい。
俺への恨みの素晴らしさか、それとも――いや、それは無いだろう。

敦賀の表情は見なくても分かる。心中は痛い程分かる。
俺だって今、きっと同じ想いだ。

キョ−コは俺に一度も向けた事の無い様な顔をアイツに向けていたから。

「如何して敦賀さんが此処に――」
「俺の事は気にならないのかよ!」
「あの――携帯取らなくてすいません。私――」
「だから俺の事は――」

「仲が良くて結構だけど仕事はサボってはいけないね。
最近何か隠し事をしてると思ってたらそう言う事だったのか――」
「あのッ!違います!私…あの――ああ!待ってください!」

敦賀は背を向けて去ろうとしたのかキョーコが立ち上がり
俺から離れようとした。

つくづく思う。
俺は――ヒールだ。

敦賀が…協力してくれたアイツが傷ついているのを知りながら…
キョーコが追いかけて来てくれるのを待っているのを知りながら
離したくなかった。――離せなかった。

キョーコがフラフラと立ち上がり、まるで夢遊病の様に
アイツの背を追うその身を、腕をつかんで反転させてぐっと抱きしめた。

「こっちなら濡れても良いぜ。俺の自前だ。何も着てないけど」
「――如何して……」
「…あ?」

不意に身を突き放されてよろめいた。

「如何してからかうのよ!私がそんなに滑稽!?」
日頃は地面から染み出る様な恨み節を唱える癖に
アイツは珍しく金切り声を上げた。

これはきっとキョーコの本心だ。

「面白いんでしょう!?馬鹿にして!」
「俺はお前が好――」

止められずに溢れた言葉は言い切る事が出来なかった。
キョーコが両手で俺の口を押さえたから。

「冗談でも本気でも、そんなの聞きたくないわッ!」
「……」
「もう聞きたく――無いのよ…」

ああ、あの時みたいだ。いつもアイツが本当に悲しい時にした顔。
ボロボロとまるで壊れた蛇口の様にその大きな瞳から流れたソレが
ぽとぽとと沢山床に落ちて行った。

ぐっと腰を抱き寄せると俺の胸に一瞬額を付けた後
アイツは再び俺を突き放して駆けて行った。

「キョーコッ――!」
返事は遠くなる足音。
「最上さんッ――!!」
敦賀の声も聞こえた。きっとアイツはキョーコを追いかけるだろう。
そしてヒーローとヒロインは進展し、ヒールは退場する――
良く在る物語じゃないか――

情けないが泣けた。それでも腕に残るアイツの感触が恋しくて
それを抱く様に我が身を抱きしめた。

二人の足音はもう聞こえない。
もう俺の手の届かない所に行ってしまった。

暫く泣いた後、外に出るとてっきり無いと思ってた
アイツの車が駐車場にポツンと残っていた。

――二人で乗って帰ったんじゃ…

気になって中を覗くと敦賀がハンドルに突っ伏す様にして
――あれ?コイツ泣いてるんじゃね?…と思ってそっと去ろうとした途端
扉が開く音がした。

「待ってたのに置いていくつもりか?」
「――ああ?待ってた?キョーコは…」
「一人にしてくれと逃げられた」
「――そう…か」
「『ごめんなさい』『すいません』がドップラー効果起してたよ」

こんなに辛いのに思わず噴出してしまった。

「敦賀サンよ、アンタ優しいな。慰めてくれてるのか?」
「慰めて欲しいのは俺の方だ、そんな余裕は無いよ」
「そうか、体で慰めてやろうか?」
「結構だ」
「良かった。受け付けられたら如何しようかと思ってた」

俺達は笑った。力の無い乾いた笑いだったが少し掬われた気になった。

「帰ろうか、彼女を探しながら」
「ああ」

車はゆっくり発進し、探す様に道をグルグルと無駄に流した。
俺は周りを見渡してキョーコを探したが結局見つからずに
陽がどっぷり沈んでアイツの下宿先と言う所に付くと
敦賀は上の階を眺めながら携帯を鳴らした。

着信音が上の階から響く――が枕か何かを乗せたのか
音はすぐさま小さくなった。

「とりあえず、無事に帰ったようだから――」とアイツは小さく溜息を付くと
「送るよ」と俺に苦笑した。



【続く】




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