第八話


とぼとぼ歩く帰り道――夕日が背を照らし長い影が地に伸びていた。
心なしか影までが弱々しく見えたのはきっと自分がそうだと言う自覚が在るからだろう。

「何がしたいんだろう、私…」

頼りない独り言は同じく頼りない足音に掻き消されて消えた。
相変わらず世間は慌しい様で人も自転車も次々と私を追い抜いていった。
ビルの狭間に見える狭い空の茜色が少しずつ紺色に侵食されていくのが見えた。

「ここの空は狭いな…」
広い空を持つ京都を捨て上京してから必死で働いて尚を支え、捨てられ、泣き濡れて…
気を取り直して復讐を誓い入った芸能界で演技に夢中になって…

色々あったけどいつだってわき目も振らずに夢中になって
今やっと空を眺めて初めてそんな事に気がついた所に自分の鈍さを再認し思わず苦笑した。

皆、こんな狭い空の下で泣いたり笑ったりしてるのね。
まるで舞台のお芝居みたい。生きて色々在って死ぬだけのお芝居。

ただ人生なんてそれだけの事、何て思ってしまうと胸に蔓延る罪悪感が
ちっぽけな事の様に思えたけどそれは酷くそれに対して自分を騙してる様な卑怯さを覚え
更なる罪悪感を募らせた。

言い訳ばかり。取り繕ってばかり。
結局自分の欲望にだけ忠実になって人を傷つけている。

――思う存分傷ついておいで

アノ先輩には何処まで先が見えてるんだろうか。
何をどう考えて「行っておいで」何て言えたのだろうか。

逆の立場なら言えただろうか、彼の過去に想いを残す女性が居たとして
私の事も好きだけど彼女にも少し想いを残してる、何て言われて…

その女性と仕事として一緒にする必要があると言われて
例えその仕事が芸の足しになるとしたら…

辛い。そんなの怖い。「行ってらっしゃい」なんて言える気がしない。
…でもきっと言うわ、尚の時だってそうだったもの。

足手纏いになって嫌われたくない、それも在る。
でももしその一言のせいで彼が役者として、人として躓いたり後悔する様な事になればと思うと
寂しい想いをした方がマシに思えるから。


アノ人もそう思っての事なのだろうか。

心に重い疲労感。

何も解決していないのに電話する訳にはいかない。無駄に傷つけるのは避けたい。



でも――


今とても、アノ人に逢いたい――。



甘えた考えを払拭する様に頬を強く叩き家に至る最後の角を曲がった時に見えた車の陰。
いつの間にか紺色に侵食されつくした情景に溶け込む様なその朧なシルエットなのに
それはアノ人の車だと言う事を瞬時に確信したのは何故だかは分からない。

車に凭れる様に立っている長身の影が見え、思わず私は彼の名を呼び駆け寄った。

「如何したんです?こんな所で――」
「いや、何も無いんだ。ただ――」
「ただ――?」

彼はぐっと私の手を掴み自分の元に引き寄せるとぐっと私を抱きしめた。

「理由は無いんだ。こうしたかっただけ」
「逢いたかったです」
「有難う」
「本当に、逢いたかったです」
「うん…」

結局交わした言葉はそれだけで、後はずっと真っ暗な道のそれまた深く闇を落とす
車の陰に隠れたまま彼と抱き合っていた。

それからどれ位時間が経ったのか分からないけど
不意に彼が私の体を離して微笑んだから私も黙って頷いて微笑んだ。

後はおざなりな別れの挨拶を交わし彼に背を向けたが
離れてもなおあの暖かく優しい温度が私の体をじんじんと温めていた。


たったこれだけで元気になってしまうなんて。


たったこれだけで…


「よし!明日も精一杯やるぞぉ!」と雄たけびを上げる様になれる何て私、馬鹿みたい。


ふとエンジン音のしなかった事を不審に思い振り返ると
雄たけびが聞こえていたのか車の中から窓越しに彼の爆笑する声が聞こえたから
羞恥に耐えかねて家までの道をダッシュで帰った。

早速シャワーを浴びるも気がつけば鼻歌。
浮かれてる自分に気がついては尚への罪悪感に押されて素に戻る、を繰り返したけど
ベッドに入ってもまだあの抱擁の感触も温度も消えなくて、それがアノ人を想わせた。

罪悪感だとか道徳観念とか…
しっかり筋を通して生きて行きたいと思うのに
アノ人を前にしてはそれらも全てクリアされてしまう。

恋は本当に病だ。病の様な恋だ。
こんなに舞い上がりながら、私はまた尚を前にして動揺してしまうのだろうか、と思うと何だか明日がとても楽しみに思えてきて


――いつの間にか私は夢の中に堕ちた様だった。


【続く】




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