第九話


 

すっきり眠れたけど変わらず心は重くけだるい…そんな日だった。
敦賀さんとの想わぬ逢瀬に心が踊り、全てが巧く行っている様な錯覚がしたけど
やはり問題は未だ問題≠ナ散らかったままの形相で私の心に重石を置いた。

幾度となる尚からの電話に胸が締め付けられるけど
仕事の時間以外に彼と電話する事に対しての裏切り感と言うか、罪悪感を感じ
取るべきか取らざるべきかを迷ったけれど結局は取れなかった。

不思議な関係だった。こうして離れていると逢いたいとか、声が聞きたいと想わないのに
実際に逢うと彼の行動と表情に流される様に私の胸は焦げそうな程熱くなってしまう。

変える間際にあの扉の前で帰るのを躊躇する程度には。

撮影が終わり、尚の家に向うも足取りは重い。
私は決して彼の元に行きたい、とは想ってない様で――そりゃそうだわよね。

行くと辛いもの…。切なくて息苦しいもの…。
いっそ仕事を断って逢わなくなってしまえばなんて事無いのだろうけど…

恋心、満たされなかった想いのカタルシス、そして遅れて届いたの報いと甘い時間への未練。

どんな経験でも演技の足しになる、と先輩は言う。私もその通りと想う。
この身もだえする様な感情もいつかは私の糧となる。かつて彼に投資した分の時間もお金の代償として。

取り返してしまったなら私はもう「尚のせいで…」とか言えなくなる。
犠牲と報酬がイコールになってしまったら彼に食って掛かることが出来なくなる。

離れてもなお、私達を繋いでいた「憎しみ」と言う名の絆が消えてなくなってしまう…。

加えて、アノ部屋の中だけでとは言え幼馴染以上になってしまった今
仕事が終わり、心の整理を付け敦賀さんの元に向ってしまったらもう…

――尚とは何も無くなってしまうんじゃない?

携帯が鳴る。ディスプレイを見て思わずそれを抱きしめる。
この切なさは何に対してなのかは突き止める事も出来ず
ただじっとその胸の痛みに耐えていた。

尚の部屋の前に着いても暫く開かずに扉を眺めていた。
いつか去るだろう場所をよく見ておきたかったのかも知れない。

深呼吸をして心を収め扉を開けるとベッドに落ち着かない様子で寝ていた尚が
今まさに目覚めた様な顔を一瞬作った後、自嘲しながらそっぽを向いた。

「電話してくれ…」
「なんで取らねぇんだよ…」
「撮影ちゅ…」
「そうか、扉を出たらお前は仕事≠ナは無くなるもんな。
大体の時間は守ってくれてるし…別に異論はねーんだよ、うん」
「そう…よ…」

胸を刺す痛みに気がつかない振りをしながら流しに向いながら
虚ろにその痛みの原因になった言葉を反復した。

「仕事、だもの…」
「疑似恋人…だもんな」
「演技の練習、、よ」

傷ついているだろう、尚は。傷つけたのだろう、私は。
まるで酸素が薄くなった様な息苦しさを感じ思わず深呼吸をしながら
料理の準備を始めた。

「折角…だからな…」

ベッドのきしみ音が聞こえて足音が近寄ってきたと思えば
尚は背後からそっと私の体を包み、ぐっときつく抱きしめた。首筋にため息が掛かる。

「如何したのよ…子供みたい」
「なんとでも言えよ」
「ちょっと!料理出来ないじゃない…」
「鬱陶しいか?」

言葉が出て来なかったから黙って首を横に振った。

「そんな事…」
「恋人≠セもんな、そう言う設定だもんな」
「そうよ!そう何度も言わないでよ!」
「業務を確認して何が悪い!」

尚が傷ついている様がひしひしと伝わる。
その空気が、表情が、言葉が苦しい、苦しい、苦しい、それなのに愛しい。

この辛そうな顔が、物欲しそうな切なさが、その懇願する様な哀れさが
酷く愛しくて仕方が無い。

この感情はなんて言うモノなのだろう。私は今どうなっているのだろう。
現状を把握しようとすればするほど溺れる様に見えなくなったままそっとわが身を抱く彼の手に自分の手を添えた。

彼の手はとても暖かかった。

「尚、仕事は…?」
「ああ、順調だ。俺を誰だと思ってるんだ」
「天下の不破尚様、よね」
「ああ…」

「なぁ、キョーコ…俺の事好きか?」
「昨日言ったじゃない」
「好きか?」
「…そうよ…好き…よ…」
「何故…?」
「…何故…?」

「それが分かれば苦労は無いわよ…」
「何故業務だから…って答えない…」

虚を衝かれると言うのはまさにこういう事なんだと思う。
私は動揺して思わず手にした包丁で指を切りそうになった。

建前と本音。尚には恋人云々の話の上ではずっと建前で話してるつもりだった。
そもそも早い段階でその設定には歪が出ていたのだろうけどそんなのは
自分の心の抑止になってくれさえすれば如何でも良かった。

つまりは只の方便。自分に言い聞かせる枠組み。
その枠組みから想像付かない程の本音が沢山膨れて漏れ出てしまって居た事を
指摘されて始めて実感した。

「それは…」
「役を作る上で妨げになるから…か?」
「…そうよ」
「だったら何故さっき仕事だ、と念を押したんだよ」
「良いじゃない、別に。もっと楽しい話をしなきゃ!私達は少なくとも此処に居る間は恋人ですもの」

頭がごちゃごちゃ混乱してきたのと、問い詰められると襤褸が出るのと
それと少し、時間が勿体無いと思ったのもあった。

いつかこんな時間が在った、と言う事すら想像も出来ない程
遠く離れてしまう二人になるかも知れないのだから――

暫く返事を待つも帰ってくる様子が無いので料理を再開させた。
それからも納得が行かないのか次々と問いかけてくる尚を
心の表面だけでぬらりくらりと交わしていた。

次第に答えを出す事を諦めたのか尚の様子が変わった。
不意に茶々を入れてきたり、ふざけ出したから私は安堵して
怒ったり、笑ったり、まるで子犬の様にじゃれあった。

笑う尚が懐かしく感じた。
まるで昔の二人の様で…それが嬉しくて仕方なかった。

「マッサージしてくれよー」
「寝てばっかのアンタに何でそんな事…っ!」
「寝てばっかぢゃねーし!曲とか作ってるし!」
「大体は寝てばっかじゃない!私は…」

「おうおう!じゃー俺がしてやんよ」
「ええ?アンタが?」
「ありがたく思え!さあ寝ころべ!」
「…胡散臭いわね…」

「おう、マッサージってのはな?こうやって…」
「うん…」
「こうして腕をだな…」
「…うん」

「こう脚に掛けて…」
「これって…」
「腕挫十字固(うでひしぎじゅうじがため)ーーーーっつって☆!」
「痛い痛い痛い痛いッ!」

お返しに煽てて服を着させてばっちりナルシストポーズを取る尚をに
ドロップキックを決めてやった。

蹴ったり殴ったり遠慮の無いやり取りにこのまま時間が止まってしまえば良いのに…何て正直思った。

楽しい時間は早い。いつの間にか自分でセットしたタイマーがなった。
別れの時だ。一番、一番嫌な時間。

「じゃぁ…帰るわね…」まだ息が整わないままそう継げると
「…あぁ…げっほげほ…」と尚は咽ながら返事をした。

ぐっと部屋の湿度が上がった様な錯覚がして、そんな中私は
いそいそと帰る準備を整える。

「また…明日ね…」
「もう少し…」
「また明日来るから…」

さっさと出てしまえば苦しくない、そう思って踵を返した瞬間
尚が私の腕を捕らえた。

言葉は無い。言いたい事は痛い程分かる。
顔を見ると「もう少しだけ…」なんて言ってしまいそうになるだろうから
私は俯いた顔を上げる事が出来なかった。

「明日来るから…」
返事は返ってこない。その代わり腕を掴んだ手が少し緩んだから
私は急ぐ様にその扉の向こうに出て扉に縋ったままするするとしゃがみこんだ。

ごん、と扉が鈍く響いた音は恐らく尚が頭を軽く押し付けたせいだろうと言うのが
何となく想像できるから辛い。

そう思いながらも手元にある携帯の画面の先輩の名に心を躍らせた。
双方に対しての罪悪感を覚えながら。

いつか私は完全に心を決めてしまうのだろう。
そうすればこうして彼と接する事も無くなるのだろう。
全て思い出と経験になって離れていく。この痛みさえも。

そうなれば楽になる筈なのに、幸せになる筈なのに
今の私にはとても悲しい事の様に感じて涙が出てきてしまった。
さようならへのカウントダウンが始まったかの様に。




その時が来ても私はこの痛みをきっと一生忘れる事が出来ないだろう。



貴方と共に心を痛めた一生分のひと時を。




【終わり】


ドアに縋って泣く少女、ドアにもどかしさをぶつける男
って図が浮かんで絵は書けないので二次で文章に起してみよう、と言う試みでした。






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