第壱話


毎日毎日僕は夢を見ていた。

あの時の事を繰り返し繰り返し

幾ら繰り返しても何も変わらないと言うのに
僕の意思を無視して脳は今日もまた変える事の出来ない現実を
自分に認めさせようとする様に繰り返し同じ映像を見せる。

まるで拷問だ。
それで無くとも普遍的な日常でさえ拷問に感じてしまうと言うのに
僕の生活は…寝てるのも起きているのも辛くなって…

心が現実から遠く遠く離れる様にいつもよりもずっと胡乱に過ごす事になった。

「タツさん…タツさん…?」
狭い家内を探す妻の雪絵の声が室内に響く。
声が頭の中を一杯に広がり僕は慌てて頭から布団を被り
そっと拒絶の意を示した。

頭上に在る僕の部屋の襖が開く音がする。
立て付けが悪い所為か酷く大きい音が鳴る。

「タツさん…」
彼女は何か言うべき言葉を捜しているのだろうか
頭上に感じる気配はそこから動かない。

そしてまたなるだけ響かない様に閉めた襖とその彼女の意図に
吐き気を催す程の圧迫感を覚え、さらに布団の中に閉じこもった。

雪絵は優しい。こんな不出来な夫なのによく尽くしてくれる。
今だってそうだ。こんな月末、稼ぎも無しに万年床に潜っている旦那など
いっそ捨ててしまって自由になれば良いものの…

彼女は出て行かない。傍から離れない。いつも変わらぬ思いやりをくれる
後ろ向きに生きる僕を非難もせずに。

なのに僕は――
その愛情さえ疎ましく思っているのは愛しているからだと…
そう心の端で思う自分さえ愛せずに居る。
僕はもう、人と関わるのは嫌だ。

ぐっと目を瞑ればいつだって鮮明に呼び出される風景と音声。


京子さん――涼子さん――


おかあさん――


雨が降る暑い日、彼女は姑獲鳥(うぶめ)になった。
何か口を動かして僕に言った言葉は生憎、僕には聞こえず
只、ゆらりと彼女が消えていくのを僕は見ている事しか出来なかった。

血に濡れた下半身が――赤子を抱いて…あんなになってまで――

彼女が欲して居たものを神はどうしてお与えにならなかったのか…
苦しむ為に生まれて来たようなものじゃないか。

僕が与えるべきだったと自分を責めるのは只の傲慢だと分かってる。
だからと言って彼女に何も与えなかった誰かを責めるのは責任転嫁だ。

僕の思考は何度試しても此処で最初に戻ってしまう。

誰かと関わるのはもう嫌だ。
心に荷物が嵩んでしまう。僕の体は重くなる。
その満足感よりも不快感の方が勝ってしまうのはきっと…僕の病の所為なのだろうけど。

雪絵――逃げてくれ。君もあの人の様に姑獲鳥になって仕舞う。
僕は何を与える事も出来ない。君が僕に望む本当のものは知っているんだ。

「子犬を飼っては駄目かしら…?」

彼女は寂しいんだ。僕がいつでもそっぽを向いているから。
だからきっと自分を真っ直ぐ欲してくれる何かが欲しいんだ。

―― 子供が欲しい…

そんな言葉さえ遠慮して言えないなんて…
言わせてやれないなんて…

本当に欲しいのは子供なのだろう?雪絵。
僕は分かっていて、気が付かぬ振りをして彼女の優しさからの誤魔化しさえも受け止めてやれずに一刀両断に拒絶してしまった。

おかしな話だが面と向かっている時よりもこうして篭っている方が周りの事が良く見える。
人前に立つと自分の中の曲がった達観や、厭世観が自分にも向いているのではないかと
自分の一挙一動が監視されている様な気になって緊張し、恐怖し、言葉が発せ無くなり
それを取り繕うと焦れば焦る程、僕は怪異な行動を取る。

結局の所、自分の世話も見れて居ない始末だ。
それに自分の事を顧みて思う。

僕は子供なんて壊れ物、愛せる気が全然しない。
僕が巧く愛されなかったのだから…
僕は巧く愛してなど貰えなかったのだから…

酸素が足りて居ないのか布団の中は湿気がこもり息苦しくなる。
それでも僕は顔を出す気にはなれずに酸欠のまま篭り続ける。

不意に玄関で騒々しい声が聞こえたと思った瞬間
ドタバタとこれまた騒々しい足音が聞こえ、
その来訪者の正体を諒解し、硬く布団を我が身に巻きつけた。

――がそんな些細な抵抗など彼に聞くはずも無く
僕は布団に投げられる様に畳みに転がされた。

「わーはははッ!黴(カビ)好きの猿にとうとう黴が生えたと聞いてなッ!」
「榎さん…誰からそんな…」
「あの埃に塗れた本狂いに決まっているだろうがッ!だから俺は言ってやったのダ!
黴が生えたのでは無い。この猿は猿に見えて実は黴そのものなのダッ!」

僕は相変わらずの滅茶苦茶な言動に頭を抱えた。

「良いか、猿。黴猿、略して猿だ。太陽に当たらないからそんな顎から黒黴など生えるのダッ!
さっさと用意をしろッ!」
「これは髭で…」
「五月蝿いッ!さっさと出かける用意をしないと太陽に当てて干からびさせてやるぞ!」

彼に抗えた試しは無い。そういえばあの時だってそうだった。
僕が藤枝の手紙を渡して帰って来たあの時、
酷く鬱病を拗らせて部屋に引き篭もったあの日から何かと世話を焼いてくれていたのは
目の前に居る陶器人形(ビスクドール)の様な性格破綻者である彼と彼の言う本狂いだった。

また性懲りも無くこの厄介者の僕を救いに来たのか…
僕には何も無いのに…

如何して皆は僕など放っておいてはくれないのだろう。
何も得るものなど無い筈なのに…と考え込んで用意する手が止まる度に

「用意もろくに出来ないとは流石猿だな。猿の方がよっぽど賢い。芸も出来る」
「僕だって…」
「なんだ、言ってみろッ」
「…文字も書けますし…文章だって…」

彼は思わず話題に食いついてしまった僕を見てニタリと笑い
「そんな事は如何でも良いのだ!さっさと用意をしろッ!」と
自分で聞いておきながら出した回答をまったく無視して大声で急かした。



【続く】




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