第弐話


雪絵に出かける旨の話をすると彼女は深く問わずに
笑って「いってらっしゃい」と送り出してくれた。

「実に猿には勿体無い人だ」

榎木津は僕の頭上を見てそう言うとさっさと歩いて行った。
僕と榎さんの足の長さがまるで違うから彼には歩いているつもりでも
小走りにならないと僕は付いていけなかった。

日ごろの不摂生が祟り、僕は息が上がってしまう。
そんな僕の様子を横目でチラリと見ると「意地悪をした罰だ」と
速度を少しも落とさずに歩き続けた。

僕の記憶を見たのだろう。物思いにふける雪絵が見えた筈だ。
そして僕の酷く拒絶を示した不愉快な顔も何処かに映っていたのだろう。

厄介な事にこの榎木津には人の記憶の映像が見えるのだ。

僕が救いを求めるように彼を見たが彼は振り向く気配すらない。
今、一人にされると雑踏の中に自分が埋もれて消えてしまう気がして
僕は必死に彼の速度に会わせるしかなかった。

必然的に僕は彼だけを見て、彼の行く方向について行く事になり
それだけに尽力を尽くし、日ごろ気になる人の流れや言葉を
一切気にする余裕を持てなかった。

道はいつしか見覚えの在る急な角度の不自然に上がり下がりを繰り返す坂に着く。

「…はぁ…はぁ…榎さん…ちょっと…心臓が潰れて…」
「そんな心臓など潰してしまえッ!」

彼はそう言って暫く僕が追いつくのを待って
僕が立ち止まり、息を少し整えるのを見届けると
さっさとその坂を上がり始めた。

「あっ…待って…まだ…ちょっと!」
「ごろごろしてるから鈍る!さっさと歩け!
筆しか持てない筆虚弱眼鏡猿!略して猿だ。ほら行くぞ!」

結局名前は猿に落ち着いたようだ。
僕はそれ以上何も言えずに「榎さんは滅茶苦茶だ!」と
至極真っ当で、尚且つ無意味な愚痴を言いながら坂を登った。

決して出れない様に思ってた布団の中の世界から僕は抜け出し
こんな坂の上までとうとう来てしまった事がまるで夢の世界の様に
現実感を一切伴わなかった。

ふと見下ろした坂は僕が自らの夢想に憑かれて姑獲鳥を見た場所。
あの時のあの眩暈の感覚だけが蘇り、自分の体の均衡が疑わしくなり
土壁で我が身を支えながらそっと坂を下りると中腹まで下りた。

誰か探し人でもしてるかの様に…
そしてその人が背後に居るのを期待してそっと振り返った。

そこに何かが居る筈も無く、
ただ虚無だけがひっそりと両脇の土壁の間に大きく構えて座っていただけだ。

何も無いその空間に立ち尽くして溜息をついて諦めて上がる。
その時見上げた坂の上には先程まで居てた榎木津ではなく
着流しを着た芥川の幽霊が相も変わらず眉間に皺を寄せて立っていた。

「逢えたかい?目的の者に――」
京極はいつだってこうして僕を馬鹿にする。

「誰に逢おうとも思っては居ないよ。ただ、運動していただけだ」
きっと何を言おうと誤魔化せる相手では無い事を知りながらも
僕は自分の世界に揺蕩っている事に触れて欲しくなくて
愛想も無しにそう返した。

「榎木津ならさっさと中に入ってしまったよ」

京極堂は溜息を付きながら玄関の戸を開き
「入るんだろう?」とその戸口に掛けられた板をクルリと裏返した。

『骨休め』

僕達が来るとこの古本屋の主人は商いをする事を諦めて仕舞う。
そもそもがいつ来ても主人が売り物である本を読んでいる様な店だが
意外と客層は幅が広いらしい。

それでも僕の目にはいつだって骨を休めている店だ。
酷使される事の無い骨を甘やかす場であるその店の奥座敷に
入っていくと先に入っていた主人は湯を沸かし、もっと先に入っていた榎木津は
座布団を一人で沢山使い、床に寝そべっていた。

そして主人の入れてくれた白湯風のお茶を頂き
視線を上げた時には主人はもういつもの場所に座り、
卓上に本を広げ、読み始める所だった。



【続く】




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