第肆話



不意に鳥の羽ばたきが聞こえ僕は思わず身を縮めた。
京極堂は目の端でそんな僕の様子を見て口の端だけで笑った。



「望んでいたのだろう?」
「別に望んでいた訳じゃ…」
「姑獲鳥にもう一度…」
「そうだ、怖いよ、怖いのに望んでいるのだよ、僕は――」


「逢えば良いじゃないか…すぐ逢える」


京極堂はそう言って僕を…いや、僕の背後に居るモノをじっと見た。その視線の中の狂気が、脅迫する様な、いたぶる様な愉悦が…




再び僕の背に…




…姑獲鳥を呼んだ。





ぞくぞくと背筋が凍る様な寒気が襲う。
そっと背の皮膚を指で辿られる様な不快で…不安で…
恋しくて…嬉しくて…涙があふれ出た。


涼子さん…涼子さん…涼子さん…


振り返れば確定してしまう有無
振り返るな、振り返るな、背中で僕は彼女を感じるんだ。

そうしたらそこに居るのだから。
僅かな可能性、それが例え思考実験としても…
その可能性に希望を掛けて…

僕は心の中で彼女の名を呼ぶだけで精一杯で
何の気の聞いた台詞も浮かぶ事無くずっと繰り返し阿呆の様に
繰り返し呼んだ。

背に在る気配はいつの間にかしっかりと像を結び存在していた。

瞼を閉じればあの日の彼女が記憶から呼び戻される。
雨に濡れ、赤子を抱え、体から血を滴らせて…

なんて禍々しいのだ、何て執拗な感情なのだろうか
それでも僕はあの時思ったんだ。

――何て美しいんだ…と。

何時の間にか涼子さんは雪絵の姿と混ざっていた。
相変わらず目の前の姑獲鳥は美しかった。

気配がすーっと薄くなり消えたのを感じた。

「逢えたようだが、所詮は生者の未練に過ぎないよ」
相変わらず無愛想にそう言って本に目を落とす彼に
「有難う」と僕は珍しく礼を言った。

相変わらず蚊は精力的に僕だけを指すので
払いながら掻くので精一杯になってしまった。

京極堂は煙草と蚊取り線香に火をつけて僕に差し出し
僕はそれを素直に取り、自分の足元において煙を纏った。

玄関の扉が開き、千鶴子さんと妻の声が聞こえた。

「あら、男三人がだらしの無い事!」
厭味の無い透き通ったこの家主の妻はそう笑いながら
お勝手に向かい「今、買ってきた美味しいお菓子を出しますからね」と言った。

「あ、千鶴子さん私が…」
「良いのよ、二人係でやる事じゃないわ」

二人は本当に仲が良い。良くしてくれる千鶴子さんに
妻も大層懐いている。

しばらく私が、私がと言い合って居たが結局言い負かされたのか甘えたのか、雪絵は僕の隣に座るなり

「まあ、沢山噛まれて…」と僕の凹凸激しくなった腕を見て
そう驚いた。

「蚊も馬鹿じゃないな、一番動きの緩慢な者にたかる」
京極堂は相変わらず不機嫌そう顔でからかう様にそう言った。
事実からかっているのだろう。

「五月蝿いな、君だって本の頁を捲る位のもので…榎さんなんて寝てばかりだ、ちいとも動いちゃ居ない」
「動いちゃ居ない人間よりも刺されると云う事はどう云う事だか分かるか?関口君」
「……君達には血が通って無いから吸えないのだ」

「そんな事…!」と雪絵が笑い、釣られるように京極堂も笑った。
「…でないとおかしいよ。僕だけ吸われるなんて不思議、解決する筈が無い」
「世の中には不思議な事など何一つ無いのだよ、関口君」
「え?」
「君が動いて居ない人間よりも動いて居ないだけの話だよ」

そんな馬鹿な…!と混乱する僕を見て二人は笑った。

「匂う!匂うぞ!旨そうな匂いだ!」
いきなり起き上がる榎木津に驚いた僕はまた座布団から転げた。

また二人は僕を見て笑う。
お茶とお茶菓子を運んできてくれた千鶴子さんも榎木津の無邪気な反応に笑った。

「さあさ、皆で頂きましょうか」
千鶴子さんがそう促した途端、榎木津は「ご馳走様」

目の前に置かれてすぐ食べたらしい。堪え性の無い男だ。
僕の隣で雪絵は遠慮がちに出された羊羹を口に入れて
ちらりと僕を見て…微笑んだ。

『この間はご免』

『いつも苦労をかけてご免』

『愛してる』

『有難う』

陳腐で薄い言葉なら幾らでも出てくるが
そんなものを口にする事に酷く違和感が逢った。

だから僕は…

「ちょっと…待ってくれ…あの…いつか…」

もごもごと口ごもる様に言った精一杯の言葉は
何の形を結ぶ事無く曖昧に終わった。

それでも何か伝わったのか雪絵は僕の肩に
ゆっくり自分の頭をこつんと当て
「はい…」と、、とても綺麗に微笑んだ。


――何て美しいんだ…


動揺した僕は慌てて僕はお茶を飲み、熱さに驚きついでに自分の服にも零した。大慌てする僕を笑わなかったのは妻だけだった。彼女は手拭いを出し僕を懸命に拭いてくれた。

日常がまた覆いかぶさる様にやってくる。
また僕はその温さに自分の居場所を見失い、夢と現を行き来する事だろう。それでも今、感じる事を大切にしたくて…

そっと畳に置かれた妻の手に手を重ねた。



【終わり】




【後書き】
本編での関口氏は本当に一杯一杯なので寂しい思いを雪絵さんはしてるだろうと言う… 偶にはこんな時も在って欲しいと思うわけです。 駄文同盟.com

inserted by FC2 system