第参話

本に目を落とす前に僕をチラリと見た彼は
僕の視線の意味を如何とったのか

「雪絵さんもずっと君の顔ばかり見ていたら飽きるだろう」
そう素っ気無く言った。

――だから妻が不在でね、こんなお茶しか出ないよ、と言う意味だろう。彼は時々こうしてわが妻の事を夫婦揃って思いやってくれる。きっと千鶴子さんは雪絵を誘って何処か気晴らしにでも連れて行ってくれるのだろう。

偶に彼と彼の妻がこうして気遣ってくれる事が
ありがたく思いつつも僕の劣等感を擽り辛く思う事が在る。

僕には出来ない事だ、自分の妻でさえ如何にもしてやれないと言うのに人の事など思う余裕は無い筈なのに…あの日の夏に心が引きずられてしまう。

相変わらずどう言う神経なのだか未だに判らないが榎木津は呑気な顔で人の家だと言うのに気にする事も無く寝息を立てている
京極堂はその様を見ると特別何も思わないとでも言う様にしていた。

開け放った室内を風が通る。
虫の音が遠くから聞こえる。

季節を連れて来るように増えつつある蚊は
何故なのか判らないが僕にだけ集まる様で
僕は絶えずそれらを追い払いながら噛まれた所を掻くのに忙しかった。

目の前の二人と一緒に居ている様な気がしない。
何か変な薬剤でも飲んでいるのか二人には蚊が止まらない。
汗すらもかかない。

夏が僕に浸透していく。
一番生きて居るのか死んでいるのか疑わしい僕に――

「箱を開けなければ居る可能性も在るんだ、、」
僕は姑獲鳥になった人の事を考えていた。

京極堂はそんな言葉を吐いた僕を一瞥して
大きく溜息をついた。

「そう言ってたじゃないか」
「あくまで思考実験内の事だろう」
「この間、君がそう言ってたじゃないか。そう言って僕を煙に巻いた」
「そういう訳じゃないさ、君は只の挨拶にだって巻かれる」
「それじゃ僕が馬鹿みたいじゃないか」

僕は憮然と抗議した。彼は大体僕をからかい過ぎなのだ。

「馬鹿とは言って居ない。あのなぁ関口君、僕は蟻の隊列を乱すような事は嫌いなのだが如何していつだって君は僕に乱せ、乱せと唆すんだ」
「どういう意味だ?」

彼の話はいつでも回りくどい。

「大凡の見当は付くよ、君はまだ服の裾を姑獲鳥に掴まれている気で居るのだろう?」
「別に僕は…」

「裾を握って離さないのは君のほうだよ、関口君。死んだものは君がどう望もうが帰って来ないしその感傷さえ届かないものだ。君はただ死と言う僕達の住む世界の対岸に焦がれているだけであってそこへ行った彼女に捕われているのではなく実の所は対岸に捕われているのだよ」

「そんなの誰だってそうだろう」
「君がどんな幻想を抱えようが自由だが人を巻き込むのは勘弁して欲しいな。幾ら元に戻してやっても君はまたそうして元の位置に戻ってしまうじゃないか」
「僕だって戻りたくて戻っている訳では……」

僕が言葉に詰まったのを確認する様に見ると何時もの様に不機嫌そうに眉間に皺を寄せて
また本に視線を落とした。

「僕は蟻じゃない…」
「そうだ!その通ぅりだ!」
いきなり大きな図体がむっくり起きたので僕は吃驚して座布団から転げてしまった。

「蟻は布団に篭って無駄寝をしない!彼らは勤勉なのだ、この猿は寝てばっかりだ!寝て髭を伸ばして排便をしてまた寝るだけの猿とは違う!蟻に失礼だ!」

酷い言われようだ。二の句も告げなくて呆然と見る僕を指差して笑うとまた再び横にあり寝息を立て始めた。

「君は生に関わる事を恐れ、死に関わる事に恐れながら拘るのだその思考傾向は今更指摘する事では無いが君が君自身ちゃんと自覚をして居ないといちいちこちらに引き戻す羽目に在る事を思うといつもながら溜息が出るというものだろう?」

謝るのも礼を言うのも癪だったので僕はその代わりにそっと茶を飲んだ。その温かいものはいつも通り微々たる茶の味を残して喉元を通り過ぎていった。

それでも何か言わないと負けた気になるので
「別に頼んじゃいないよ…」とだけ、聞こえるか聞こえないかと言う喉元を過ぎた茶の様な微々たる声でそう言った。

京極堂は少し口角を上げて
「君の為じゃない、雪絵さんの為にだ。亭主が彼岸にばかり滞在しているのは少しばかり寂しいかと思ってね」

言葉が突き刺さった。いや、彼の言葉は往々にして良く刺さってくるのだがいつもとは違い、暫くは消えないだろう余韻で持って僕の心を大きく揺らした。

「寂しい思いをさせていると思うよ…」

僕は思わず呟いた。京極堂は少し考えた様な顔をすると
再び本に視線を落とし、僕はそれを見届けて思考の淵にするすると落ちていった。

そうだ、雪絵は寂しいから、僕が不安定だから何か欲しがっているのだ。僕が対岸とこっちを行き来する癖を直せない限りはそれを与えてやるのが最低限の役目と言うものなのだろうが…

いつか川辺で見た濁り、どろっとした胎児…
生まれる、形成される、何かを吸って大きくなる。
僕も吸われて、しがみ付かれて、苦しくなる…

そんな情景を思い浮かべるだけで背筋が寒くなる。
それでも僕は涼子さんを思い、彼女に救いが差し伸べられなかった事が後悔として頭にしがみ付いている。

壊れても猶、あの人は――
赤子を抱いてあの人は――

嗚呼涼子さん…


雪絵も…救いを与えてもらえる事も無く
いつの日か姑獲鳥になってあちらへ行ってしまうのだろうか…



【続く】




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