第十五話




彼は一瞬複雑な表情をした後、優しく笑い
「この馬鹿が!」と溜息を出すついでの様に罵倒した。



「アンタには負けるわよ!」
私も同じ様に返した。やっぱり表情は彼のそれと同じ様になっているだろう。

彼の言葉で明確になったのはキスの意味。

――あれはキスなんかじゃ…

あの時出した私の言葉、そしてその時の彼の追い詰めてくる様な応酬。
身内同士のキスは恋愛のそれとは違う。

あの時唇に残ったのは親愛。
嫌じゃなかったのは安心感からかも知れない。
思い出そうとして思い出した感触は彼とのそれではなかった。

私はきっと目の前の彼をずっと傷つけ続けていたのだろうと思うと
罪悪感に苛まれ言葉が出なくなった。


「…Aスタ」
尚はぶっきらぼうにそう言い放った。
意味が分からなくて首をかしげた私の顔を見て苦笑し
彼は言葉を重ねた。

「早く行けよ」
まだ…彼の真意が分からない。

「人がわざわざ知らせに来てやったんだぞ!どうせお前の事だから
ショックで携帯も取らねーだろうし、逃げ回る様に自分の世界に閉じこもる事なんて
簡単に予想が付くからな!」
「…知らせに?」

「まあ、敦賀のあんな余裕の無い顔を見れたから良しとすっか…」
一人で笑う彼の真意がまだ伝わらなくて首を傾けたまま視界が変わらない。

「本っ当ーに馬鹿なんだな!お前!知ってはいたけどまさか此処までとは!」
「アンタだって私の事知らなかったんじゃない!」

「知ってる!」
「知らない!」
「知ってるって!」
「知らないのよ!」
「生態くらいは知ってらぁ!」

まさかの意趣返しに私は思わず笑ってしまった。

「お互い、生態だけは知り尽くしてるのね」
「おう…」

彼はもどかしそうにそう言うと私の手を持って走り出した。

「お前はトロいから俺が引っ張りまわしてやんだよ!」
「はあ?誰がとろいって?」
「お前だよ!敦賀は忙しい身なんだろ!撮影開始までの時間に
お前が行かないとまたどうせ擦れ違ってる間にお前は悩んで
訳の分からない事をして話が複雑になんだよ!」

「余計なお世話よ!」
「お前の幼馴染だからな!」

引っ張られて足がもつれる。
けどもつれて転ぶなんてしようものなら尚は喜んで笑うだろう。

だから私は応酬する様に走り出す。尚を追い抜く。
尚は意地になってまた追い抜かれる。そしてまたの応酬。

息が切れて、鼓動が頭中で脈を打って…
それでも無心になって走った。

雑踏を掻き分け手を繋いだまま疾走する私達に
皆が驚いて振り返った。

手を繋いで前になったり後ろになったり。
雑念が飛んで酷く晴れ晴れしい気分になった。
空は雲ひとつ無い茜色の空だった。

風景は事務所から街になり、やがてAスタジオになった。
走る事に一生懸命で景色が遠かったのが止まって漸く
風景への現実感が蘇ってきた。

心臓は相変わらず強く打つ。
それは走ってきた事に対しての鼓動なんだろうけど
100%そこに原因が在るとは思い難かった。

「行けよ」

敦賀蓮と書かれた控え室の扉を指差し彼は私に背を向けた。
急に不安になって思わず…
「ちょっと待ってよ」なんて珍しく甘えを孕んだ言葉を上げる。

「お兄ちゃんは此処まで!もう面倒みてやんねぇ!」
彼は振り返りもせずにそう言うと後ろ手で手を振った。
私はそれ以上何も言えずに「またね」とだけ言った。

私は小さくなって行くその背中を見て「ありがとう」とこっそり呟いた。

扉を前にして私は逃げたい気分100%だったけど
尚のサポートまで(くやしくも)貰って何もしませんでしたじゃ
きっと笑われる!と自分に言い聞かせて目の前の扉に拳を付けた。

実際にそんな事が嫌で行動に出たのかは疑わしかった。
そんな言い訳でも付けないと怖くて仕方なかったから…

一度目は微かに鳴った程度のノック音。
怖気付いてしまって力が出ない。

何をそんなに恐れてるかと言うと…

手に握ったメモを見れば分かる。客観視が出来る。
私はあの人と逢って言われるのが怖いんだ。

――今までの事は全て演技であった

完全なる全否定。
積み重ねた日々が虚像だったと確定する事。

そしてやはり…

今となっては短絡的に、子供の様に意固地になって否定した
恋愛の中に在ると言う罪悪感。

容易に手のひらを返す人間だと思われたくなくて
対峙した時に意地を張ってしまって壊れる関係。

それでも矢張り私は行くべきなんだと思う。

そう自分に言い聞かせて、拳に力を十分に込めて…
…ちょっと込めすぎて扉をノックした。


【続く】





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