第九話



「帰るわよ、…尚」
祥子さんの声が乾いて疲れ果てた空気に染み渡る様に響く。

尚は暫く敦賀さんをやぶ睨みしながら気だるそうに
「ああ…」と返事をして立ち上がり、服に付いた埃を落とす様に
体を叩いた。

「申し訳ありません」
社さんが祥子さんに頭を下げる。
「いつか何かが起こるとは思ってたので…」
――頭を上げてください、と祥子さんは躊躇しながら嘆願した。

「そもそもよく立て付いて生意気だったのはこっちですし…」
「理由は僕には分からないんですが…」
そう言いながらも社さんの目は泳いでいた。

「私は…分かる様な気がします」
祥子さんはそう言って翳りを帯びた顔で微笑んだ。
それを見て社さんは何故か少し安心した様な顔をして微笑んだ。

当の本人達はまだにらみ合っている。

「尚、もう行かなくちゃ…」
「じゃあな、ストイックなNO.1俳優さんよ…良いじゃねぇか
世間には一番選ばれてるんだから。それもいつかは…」
「…彼女に近寄るな。もう二度と!」

敦賀さんは相変わらず彼を威嚇しながら尖った声でそう言った。
尚はそれを振り返ると馬鹿にする様に鼻で笑った。

「俺と…キョーコの自由だろう?お前の…」
「…ええ!?…私?」

完全に自分は蚊帳の外だと思ってた私は思わず大声を出してしまった。
祥子さんと社さんは困惑顔で笑った。尚は私を指差して
「あははははは!相変わらず鈍い!鈍すぎるだろ!」と腹を抱えて笑い
敦賀さんはそっと私から顔を背けた。

――私の…所為なの?私の所為で二人はこんなに…
…如何して?

「私が何かしましたか?…私が悪いならあの…責任を…」
そう言って地面に座り込む敦賀さんに縋りつく様に問う私を見て
「責任とかッ!はっ!じゃあ分身でもしてくれよッ!」
そう言って尚は鼻で笑った。

その時の私は尚に気を取られていたから気が付かなかった。
敦賀さんがどんな様相だったか…

不意に両手首を握られ私は転びそうになるが
余程強い力で握られているのか倒れる事さえ赦されずに引き寄せられた。

「……して…」
「敦賀さん…?」
「どうして…」
「…はい?」

「どうして彼なんかに…赦したんだ!」
「赦す…?」
「好きなのか…彼が…不破が…」
「何を言って…」

私はその時初めて思い出した。尚との投げやりなキスを…

「あれはキスなんかじゃ…」
「お前は逃げなかっただろ…」
尚からの野次が聞こえる。私はどちらに言うと云う事も無く…
まるで自分に言い聞かせる様に言葉を放った。

「あれは違う、前だって違った!あんなのキスじゃない!」
「お前…」
尚の声に怒りが篭る。

「だったら…これは…?」
「……え?」

敦賀さんの声が聞こえたと思うと
きつく掴まれ、引き寄せられた手首がじんじんと痛んだ。
まるで捕われ、拷問でも受けている罪人の気分だった。



それでも唇だけは妙に温かくて…




優しくついばむその行為と温度が…




ああ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。



――体に…染みていく。



「んんーーーーーーーーーーー!」
口を塞がれたまま私はその恐怖に耐えかねて抗議の声を上げる。
敦賀さんは更に私を引き寄せ、とうとう腕の中に入れられてしまった。

接触が増えれば増える程、私は恐怖に震える。
こんなに優しく抱きしめられて私に変化が現れない筈が無い。

だって実の親にもして貰えなかった事…
ずっとして欲しかった事がこんな状況で…立て続けに与えられて…
混乱しない方がおかしいでしょう?

「これも…キスじゃないの?」

彼の声が数々の彼とのスキンシップを思い出させた。
敦賀セラピーの時の…握られた手の温度…膝枕のくすぐったさ…

「俺を責めた癖に…結局同じ事じゃねーか!只の我侭で俺を…」
「そうだ…」
「…はぁ?」
「俺は我侭なんだよ」

妙な感じの受ける言い方だった。
自分を責める様な、開放する様な、達観した様な…
清清しくも痛みの篭った不思議な言葉だった。

「もうどう思われようが構わない。大切な物を失う位なら何でも…
もう俺は妖精の王子じゃない…」
社さんも、祥子さんも訳の分からない顔をしていた。

ただ尚は頭に何か引っ掛かった様な顔をして私は…
馬鹿の様に口を開けたまま…彼の顔を見つめた。

「ごめんね、キョーコちゃん…」
彼はあの時の様に無邪気に笑った。
あの時の映像が今の目の前の人の顔と…ピッタリと重なった。

「俺のも違うの?」
彼は私を覗き込みそう問う。
私は言葉が出せずに固まったままだった。
「君の王子様と俺は…」
「すいません!」

室内が再び静寂に蝕まれた。




【続く】






駄文同盟.com 花とゆめサーチ

inserted by FC2 system